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 流能本島より遠く離れた東海に、浮かぶ大きな島がある。名を芽乞崎(メゴイサキ)と言い、人口は100万足らず。地方都市を中心に、学術研究特区と田園が広がるのどかな島。そのさらに東端の岬の上に、まるでその島を象徴するかのように、柵で囲まれた広い敷地内に建物が大小聳え立っていた。そのどれもが古めかしく、重厚で歴史を感じさせる。
 もともとは私営の美術館だったこの美しい建物は、三十年も前に美術館としての機能を本土に移しており、数年におよぶ改築ののち、いまや全く別の機関として存在していたのだった。
 SSR、セカンド・ストライク・リサーチがこの島にその拠点を構えたのは、巨大な施設を都心で展開するのには難があったためとも、研究内容を極力外部に漏らさないようにするためとも言われた。だが、移転作業はなんの問題もなく終了したのだった。
 岬の内部を大きくくりぬき、巨大な地下研究棟をその中に潜ませてしまったため、見た目はほとんど美術館であった頃と変わらない。物々しい雰囲気を表に出すことも無く、島はのどかそのものだった。
 そののどかな島の片隅の、小さな公園。その蝉の声と穏やかな晩夏の陽光が降り注ぐベンチに、くずおれるように寝転ぶ赤いジャージ姿の青年が居た。
 「・・・う、ぐうぅぅん」
 思い切り滅入ったような声を上げ、青年は体中の力を抜いた。肩まで伸びた黒い髪も艶々しい、彼の名は瀬戸晃。
 「アキラさん、午前様お〜つでぇ〜す」
 瀬戸が寝転んだベンチの隣のベンチに、並んで座った男二人のうち、黒いジャージのほうが言った。もう一人は、黒縁メガネ黒いチノパンに黄色いTシャツ姿で、二人とも瀬戸の方を横目で見、手にあんぱんを持っている。
 「例の彼女に会いに行ったんだって?とーとーゲッチュしたんスか?」
 黒ジャージはニヤニヤ顔で瀬戸のほうを見る。彼は目鼻立ちのはっきりした顔で、陽にきらめく赤い髪を持っていた。瀬戸と同年代と言うより、もう少し若い少年だ。
 「あ〜、ユミさん。武田の、由美さんね。あれだろ?なんか真面目っぽいハツラツお嬢さん。両親がSSR関係者だとか何とかで、昔っからよくここに遊びに来てた子じゃん。お前、小坊ン時から目ェつけてたろ。・・・まあ、確かに最近キレェになったよなあ・・・特にこう・・・なんちゅうか、女っぽくなって・・・」
 黒縁メガネがそう言ってあんぱんを齧る。彼は小柄だが、おそらく瀬戸と同い年くらいに見えた。
 「良かったじゃん。幼馴染の二人が、ついに結ばれたって感じでさー。う〜ん、ロマンチックねえ」
 「それだったら良かったんだけどねぇ・・・」
 黒縁メガネの言葉に、すっかり生気の抜けた瀬戸の声が答える。その応答に、二人は揃って嬉しげな表情を浮かべた。
 「え?何?じゃあ、やっぱり失敗したのーォ?」
 黒ジャージが半分楽しそうな声で問う。瀬戸はゆっくり顔を上げると、忌々しげに相手を見た。
 「晃、フラレたのか?」
 口の端を上げた痛烈な嘲笑を浮かべた黒縁メガネが更に言う。それを見て、瀬戸は身体の中を真空にせんばかりに鼻から息を吐くと、またすぐに頭を下ろした。
 「残念ながら、ハ〜ズレ。フラレちゃあいないんだけどさ・・・」
 「じゃあ何してたんすか、始発まで」
 「それがさー、聞いてくれよう。駅前にビジネスホテルとってさ。本当はもっといいトコロに行きたかった所なんだけど・・・まあいーやなんて思ってたら」
 「思ってたら?」
 「その後、由美さんがいろいろ資料持ち出して、夜遅くまで『これどー思う?』とか、『これ教えてくださいッ!』とか、いきなりストライクの勉強会ですよ〜」
 「う〜え、あの人ならやりそー!」
 黒ジャージが笑う。
 「で、夜が明けるころには由美さんそのまま可愛い顔して寝てるしさー。襲っちゃおっかなとも考えたけど、そーゆーわけにもいかんでしょ?結局、俺っちひとりで飛んで帰ってくるハメになっちゃったのサ」
 「ええっ、じゃあ、由美さん置いて来たの!?」
 「しょーがねぇなんべさー。朝六時に雨林さんから『早く帰って来い』ってモーニングコールされちゃったんだもーん。由美さん持って帰るわけにいかねえし。大丈夫。ホテル代は俺っちがきっちりSSR名義の経費にしといたから」
 「由美さん、そんなの苦手そうだしね」
 「まーね」
 瀬戸はまた、大きなため息をついた。
 結局のところ彼女にとって自分は、ただの頼りになる知り合いのお兄ちゃんなんだろう。小学生の頃から彼女がこの島に遊びにくる度に、幼い弟妹を連れて一緒に島中を走り回った仲だ。虫取り競争もしたし、木登りもしたし、子供らしい大喧嘩もたくさんした。そのころの彼女はまるで男の子のように見えたし、自分も半ば、彼女を他の男友達と同じように扱っていた節も有った。喧嘩もまるで容赦なしだった。それを思うと、到底彼女が今更自分を色恋の対象としてみてくれるような気がしなくなってくるのだ。
 「あ〜あ・・・饅頭の一個くらい、気前良くあげときゃ良かった・・・」
 「ん?アキラさん、何?」
 昔の大喧嘩の様を思い出し、思わず漏れた瀬戸のつぶやきを聞き、黒ジャージが声をかけたが瀬戸は「別に」と気の無い返事を返して起き上がった。のろのろとベンチから降りる瀬戸に、黒縁メガネが声をかける。
 「晃、帰んのか?」
 「お〜う、今日はもー帰って、過去の過ちへの後悔と愚しい若さとともに寝る〜。じゃーねぇ・・・」
 「・・・ま、頑張れや」
 黒縁メガネの励ましに片手を上げて応えながら、瀬戸はのろのろと公園から出て行った。その後姿が街へ消えていくと、黒ジャージはメガネに言った。
 「・・・・・・なんか、珍しくブルー入ってませんか、晃さん」
 「まあ、ゴール直前の尻込みってやつだな。あのヤロ、普段はなんでもポンポン勝手に決めるくせに、変なところで優柔不断になるからな。今回は特に、苦節十年の大本命相手だし」
 「エェー?十年って・・・今までの彼女さんたちは?ナミさんとか、カナコさんとか・・・」
 「俺の判断では、おそらく道草だ。あいつは昔から、買い物に行くんでも学校に行くんでも、まっすぐ目的地に着いた試しがない。頭も悪ィから、道草する度に夢中になる。余計にタチが悪いんだ」
 「そーゆー癖って、その人の人生にも出るんですねえ」
 「本人も後になって後悔してるみたいだけどな・・・後悔先に立たず。反面教師だ。良く覚えとけ」
 「アーイ」


 「小夜さん、いつまで休むって言ったかな」
 「来週の木曜日まで。娘さん、三つ子を産んだんだって。大変みたいだよ」
 「ああ・・・何か、お祝いを贈らなくちゃいけないよな・・・」
 「一応、洗剤の詰め合わせみたいなの贈っといた。赤ちゃんが多いと、洗濯物が増えそうな感じがしたから・・・良かったかな?」
 「うん、いい判断だ。普通の十四歳じゃあ、なかなかそうはいかないと思うぞ。三つ子相手に、洗剤はいくら有っても余ると言うことは無いだろ」
 「そっか。良かった。でも父さん、僕もう十五歳なんだけど」
 「む、悪い」
 流能国首都壱城、ムクイバタ市の閑静な郊外の住宅街。金曜日の次郎垣内家では、朝からそんな会話が展開されていた。まるで夫婦のような会話だが、話しているのはこの家の主である達郎と、その次男トオルだった。達郎氏はリビングのソファに腰掛けて新聞を広げていた。トオルは同じ部屋の大きな窓辺に座り込み、、サチを抱いたまま庭を見ていた。普通なら中学生はとっくに学校に向かっていなければならない時間だが、トオルは制服ではなく、Gパンに青いTシャツ姿のままで窓辺から動こうとしない。達郎氏も、それを特に気にする風でなく、まったりとしていた。
 「・・・でも、お金はどうしたんだ?父さん、何も聞いてなかったから、何も・・・」
 「それくらい、僕の貯金で何とかなったよ。毎月、お小遣いがどれくらい余ってると思ってんの。別に、あんなにくれなくても大丈夫だよ」
 「でも、トオルも大きくなったし、何かと要るものがあるかな〜なんて考えちゃったりなんだり・・・」
 「毎日家で本読んでピアノ弾いて、友達とお昼ご飯食べたりするくらいだよ。そんで、時々服も見たりするけど」
 「そーかい?」
 「自慢じゃないけど」
 トオルは上体をひねって父親のほうを見た。
 「僕って世間じゃ、結構無欲なほうみたいだよ。幸せな証拠だよ。いいことだろ?」
 「うん、確かにそうだな」
 達郎氏も、新聞を下ろしてトオルのほうを見た。達郎氏は今年で五十を超える年齢のはずだが、見たところはまだまだ若々しく、身体も表情もたるんだところがまるで無い。髪に白髪が混じり始めたのを除けば、まだまだ女性にもてそうな、イケメン盛りのように見えた。
 「友達とは、上手くいっているかい?」
 達郎氏が聞くと、トオルはにっこり笑って頷いた。
 「二人とも親切でいい奴。おととい、一緒に映画に行こうと思ったんだけど・・・迷惑かけちゃって」
 「発作かい!?」
 達郎氏は心配そうに立ち上がろうとした。それをさえぎるように、トオルは慌てて言う。
 「大丈夫、なんともないよ、軽かったんだ。もう、気分はすっかり良いんだ。十時になったら、、『ガッコウ』にも行くよ」
 「でも・・・」
 「ほら、父さん。父さんも今日からまた行くんだろ?どこだっけ今度は」
 「西色(サイシキ:国名)・・・だけど、でも・・・・・・」
 「病院にもちゃんと通ってるよ。真藤先生が言ってた。閉じこもりっきりになったり、心配されすぎたりするのも良くないんだって。大丈夫だよ、コウタロウも、レナも居るし」
 「む・・・」
 達郎氏は心配を隠しきれずに、にこにこ顔でこちらを見ている息子を見つめ返した。窓から差し込む光に透ける髪は、ふわふわした栗毛色。瞳の色も薄く、肌も白い。同年代の少年と比べても、ひょろひょろしていて少々小柄だ。
 達郎氏にとって、彼はただ一人残された家族だった。彼の最愛の妻と長男は、八年前のある日、同時に彼の前から姿を消していた。病弱だった妻は入院中に肺炎を起こし、泡のように儚い命を失ってしまった。そして長男は妻が亡くなる一時間ほど前、花瓶の水を取り替えると言い残して母の病室を出たまま、ケムリのように消えてしまったのだった。
 せめて、この子だけはなんとか幸せにしてやりたい。
 達郎氏は心の中で、繰り返しつぶやいていた。


 なるほど、これでは見つからなかったはずだ。
 彼は自分の身の丈以上の高さが怖い、自分で走る以上の速さも怖い、何に対しても引っ込み気味の少年。しかも、なるべく人に、特に父親に面倒をかけないようにしようと心に決めている。彼からは、全くと言って良いほど気配を感じない。
 何故だかは解らないが、彼を連れてお頭様の下へ参上するのが自分の使命なのだ。・・・まあ、お頭様に何か考えがあってのこと。自分が考えることではない。
 だがこれがひとつ難しい。彼は、奴らの目をつけるところでもあるのだ。そんな気配は微塵も無いが、奴らはきっと彼を見張っている。どちらかというと、彼は奴らの手の内にあるといっても良いような環境で育っていたのだ。自分が彼を狙えば、きっとすぐさま奴らの追っ手が自分を妨害しに来るはずだ。今回はどうやら、目立たずに事を成し遂げるのは無理そうだ。今までは『おとり』を街に放ち、その隙に彼を探すという手も使えた。だが、彼と直接に接触を持てば、必ず奴らの目に留まる。結構やっかいだ。
 となると・・・残された道は、ただひとつ。

 僕には、ただひとつ。


 目の前が、真っ白。僕の四方は、ベテランの左官屋さんがペンキでむら無く塗りつぶしてしまったように、全くの白で染まっていた。見回しても白、足元も白。自分の手を広げて前に突き出してみるが、何も触るものは無い。自分の手は見える。足元にも、何も無い。僕は、白い無重力の中に居るのだ。
 風も吹かないその光景に、僕はだんだん気持ち悪くなってきたが、倒れるべき地面も無いのでどうしようもない。
 何も見えないなら、いっそ目を閉じようか。そう考えた矢先、
 『・・・・・・あなたの大切なものは・・・』
 声。少しばかり舌足らず気味の、幼いようで、優しい声が聞こえた。
 『泣いていては、涙で前が見えないものなの』
 僕の、耳の傍近くで響くような・・・囁き声。
 『彼は、あなたを待っているはずよ・・・あなたの座標が自分から遠く離れてしまったことを、酷く辛く思っている』
 あなたは、誰ですか?僕は、思わずそう訊いた。
 ここは、どこですか?と、それから直ぐにもうひとつ、疑問を付け足した。
 『ねえ、諦めちゃだめ。目を開けて・・・起きて・・・お願いよ』
 声は僕の問いには応えなかった。哀しそうな、絶望した誰かをなんとか元気付けようとでもするようなとても優しいその声は、僕と関係ない方向を向いて話しているような、そんな気がした。
 あなたは、誰?ここはどこなんですか?僕はもう一度聞いたが、今度は声は返ってこなかった。
 僕は、急に不安になった。僕は、どこか訳のわからない、自分の世界ではないどこかに迷い込んできてしまったのだ。今更・・・という気もしないではないが、不安。白くて何処までも続く不安に襲われる。
 誰か!
 僕は叫んだ。
 誰か居ませんかッ!?僕の声が聞こえる、誰か・・・誰かッ!
 『時間を・・・』
 また声が響く。僕は、また黙る。
 『不自然に切り取られて、継ぎ足されてしまったあなたの時間を、元に戻すの』
 僕の頬を、なにかすごくすべすべしたものが撫でる。
 『25歳おめでとうって、彼に伝えておくわ。もっとも、彼にしてみたらもう少し若いのだけど』
 このひとは、僕と誰かを間違えているのだ。
 僕は直感的にそう思った。

 「・・・んぁっ!?」
 どしっ。ガコッガターンッ!
 「っぎゃああぁッ!」
 どすんっ。
 ひとつ大きく痙攣してから、トオルはおもむろに目を覚ました。それと同時に、トオルは椅子に座ったままバランスを崩して右に倒れ、隣の席で漫画雑誌を広げていたコウタロウに図らずも体当たりをかますことになってしまったのだった。二人は折り重なるようにして床に倒れ、見事にコウタロウはトオル(+椅子)の下敷きになってしまった。
 「・・・ぅがっ・・・っててて・・・痛ェッ!」
 「う〜・・・コウタロウ?」
 コウタロウがのろのろと身体を起こすと、トオルはコウタロウの上に乗っかったまま、ぼんやりとした寝ぼけ眼でこちらを見ていた。
 「・・・おはよう・・・」
 「おはようじゃねェぞ、こんバカッ!」
 コウタロウは半ば怒りながら、乱暴にトオルの頭を押し、その下から抜け出す。トオルがぼんやりしたままのろのろと起き上がろうとすると、コウタロウは腕を引っ張り上げた。
 「その寝相悪ィの、いい加減何とかしろッ!・・・・・・お前、ホント絶対そのうち頭打つ。俺とかレナ坊ならともかく、お前までバカになったら俺ら救いようがねェじゃねえか」
 「う〜ん・・・あ、ごめん。コウタロウおはよう」
 だからおはようじゃねぇって・・・。
 コウタロウは大きくため息をついた。
 二人が今居るのは、『ガッコウ』の『教室』だった。ガッコウといっても正規の『学校』ではなく、あるビルの所有者が様々な理由で学校に行けない子供たちのためにビルの一室を開放して開いている、ボランティア施設のような場所だ。名前さえ登録すれば、好きなときに来て好きなときに帰れるといった素晴らしくラフなシステムで、ビル所有者が時々様子を見に来るのを除けば、大人が来ることは殆ど無かった。部屋には折りたたみ長机とパイプ椅子を数組並べてあり、隅にはテレビと大きな本棚があった。本棚には絵本から児童書や漫画、育児本やら教科書やら哲学書、宗教本に至るまで、ジャンル不問にキチンと並べられている。その他はブラインド付きの窓があるくらいで、室内はそう大きくは無い。
 トオルがここに通いだしたのは、ラドニアという国から帰国して少ししてからだった。ひょんなことからレナと出会い、彼女に誘われてこのビルにたどり着いた。丁度、父親が地元の大きな私立中学とトオルのことで話し合いを持っていた時期で、トオルにとっては少なからず不安な時期でもあった。当時は身体も今以上に弱く、突発的なパニック障害にも悩まされていたトオルは、しばらくの間は到底まともに学校に通える状態では無かったのだ。両者の交渉の結果、トオルは「定期テストで合格点をとる」という条件つきで籍こそその私立中学に置いてもらえることになったのだが、通常は自宅待機・・・という身分になった。そのため、調子の良いときはこのフリースクールに通うことにしたのだ。
 「・・・なんか、変な夢見た」
 それぞれの椅子と机を立て直していると、トオルはぼそりと呟いた。
 「夢ェ?」
 コウタロウが訊き返す。
 「どんな?」
 「うーん、なんかさ、大切なものは前が見えないから、目を開けて継ぎ足しておめでとう・・・って感じの夢。それで、すごく白いの」
 「なんだそりゃ」
 トオルは要約点を間違えた。
 「それより、今何時だ・・・って、もう十一時四十分じゃねえか!俺、昼飯買わなあかん。『いいとも』が始まっちまう」
 そう腕時計を見て言うと、、コウタロウは床に落ちていたリュックを拾う。
 「コンビニ?僕も行くよ」
 「いーよ。お前、自前の弁当あるんだろ?それにお前が一緒だと、走っても一時間はかかりそうだからな〜」
 そんなに足遅くないぞッ!
 ムッとして言い返すトオルの言葉を背に、コウタロウは出入り口からすっとんで行った。
 その背中を見送ったトオルは、また机に戻る。机の下に落ちていた、中学校で貰った歴史の教科書とノートとメカニックペンシルを拾い上げる。もうすぐ、中学校で定期試験があるのだ。
 今年で三年生のトオルは、来年の三月には卒業する。今までの定期試験で落第したことは無く、むしろ成績は良い。引きこもりがちな生活の中で少しでも気分が変われば・・・と出場してみた音楽コンクールで幾つか賞も貰ったことがある。学力と賞暦だけ見れば有名難関高校も十分狙えるのだが、出席日数はほとんど無いに等しいし、当然部活にも、委員会にも入ったことは無い。その上、病気もちだ。
 こんな状況では就職は愚か、進学も難しい。今までは義務教育であったからこそ、中学校はトオルを受け入れてくれた。だがそれも、社会的功績のある父親の母校でなかったら門前払いだったかもしれない。高校や会社は、そうはいかない。
 正に、社会的絶体絶命。いくら学校の成績は良くても文才も無いし、人生経験も貧しい身の上では作家デビューは無理である。絵は棒人間しか描けない。得意なものと言えばピアノだが、それもここ何年かきちんと先生についたこともないし、だいたい進学が無理なのに、音楽学校なんて夢のまた夢ではないか。
 席に座って、トオルは教科書とノートを机の上に重ねた。頬杖をつき、窓の外を見る。窓の外の世界は明るく、雲ひとつ無い青空が、ビルの頭の間から控えめに覗いていた。
 忙しい父親に、なるべく心配をかけたくない。かけたくないのに。
 擦りガラスの窓を閉め、席に戻ると、、トオルは机の上に頭を伏せた。

 ウトウトしてしばらくして気がつき、はっと目を覚ます。教室内は少し薄暗く、トオル以外誰もいなかった。
 いっけない、また寝ちゃった・・・昨日、また遅くまでセーターの毛玉取りに夢中になっちゃったからなあ・・・。
 トオルは目をこすりながら腕時計を見る。十二時十五分。
 「ああ!『いいとも』始まっちゃってるじゃないかっ!」
 トオルは慌てて席を立つと、教室の後ろにあるテレビの方へ歩いていく。歩きながら、ふと考えた。
 コウタロウが行ったと思われるコンビニは、ここから歩いて五分のところに有る。コウタロウはいつも明太子マヨネーズと紅鮭のオニギリを一個ずつと、500mlペットボトルのコークを買うと決めている。商品で迷うと言うこともないし、大体十五分くらいで戻ってくるはずだ。レナも、いつもどこかで昼前まで寝ているはずだが、毎日キチンと十二時前には教室に来て、三人でテレビの前に並んで『笑ったりなんだりしちゃっても時にはいいとも!(毎日やっているお昼番組)』を見るのが日課である。
 どうしちゃったんだろう。何かあったのかな・・・?なんで、こんなに薄暗いんだろう。
 時計を見る。十二時十六分。
 時計、遅れちゃったのかな・・・どうしよう今、日暮れだったりしたら・・・。
 不審に思って、トオルはテレビの電源を押してみた。テレビは、つかなかった。
 「あれ?」
 もう一度押す。が、やはりつかない。
 「壊れちゃったのかなあ・・・」
 トオルはため息をついて、窓の方に行く。窓を開ければ、真正面のビルの大きな電光掲示板に時刻が映っているはずなのを思い出したからだ。
 トオルは光のささない窓の鍵を開け、ゆっくりと開けた。そして見上げたとき、トオルは目の前のモノが何であるのかを解りかね、思わず硬直してしまった。
 窓の外にはビルも、電光掲示板も見えなかった。そこにはただ、トオルの開けた窓からこちらを窺っている、大きな黄色い眼が窓の縁いっぱいに広がっているだけだったのだ。
 「・・・・・・・・・あれ〜?」
 トオルは首を傾げた。そんなトオルを見て、その爬虫類めいた虹彩を持つ眼はまるで嬉しがるかのように細まった。
 「トオルくん、見ィ〜つけたっ!」
 どこかで若い男の声がしたかと思うと、バリバリと音をたてながら窓の縁と壁を突き破り、室内に侵入してきた大きな鍵爪のある赤い手が、トオルの胴を掴んだ。

 次郎垣内明(トオル)、15歳の晩夏。久しぶりに透明な空気を孕んで晴れたこの日、彼は社会的絶体絶命と、現実的絶体絶命を同時に味わうハメになった。


つづく


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